ABOUT

Arte de aco
は、スペイン語で「アコのアート」の意
アコとは作家のニックネーム。

アーティスト西岡亜以子による
絵をテキスタイルにしたアートブランド
絵のある生活をご提案致します。

ー絵のある生活ー
作品の一部を切り取って生まれたプロダクトたち
今のアナタの直感でアートを身に付ける
今の感情を認めて表現することの大切さ


【アーティスト紹介】

西岡 亜以子 Aiko Nishioka
広島県出身 
東京在住

百貨店の販売員として勤めていたが「表現をしていきたい!」と、思い立ち2014年より独学で絵の活動をスタート。

広島では、屋外でのマーケット等に参加して原画の展示販売をスタート。
東急ハンズ広島店より声がかかり、店舗での販売やハンズカフェでの個展を開催。

2017年より東京に移住。
個展をはじめ、グループ展、アッシュペーフランス主催の展示会roomsなどに出展。
都内の百貨店にて原画と共にオリジナルグッズの販売を行う。

2019年頃より百貨店出店の際に、好きなアーティストさんの原画も販売するようになる。
その流れで、主催のグループ展やドローイング販売会など、自分以外の作家さん作品の販売や紹介も行うようになる。

現在は自分の表現のみの発信に飽き、様々なアーティストの皆さんの表現を発信したり、人と人とをお繋ぎする場をつくることが楽しく、主にアートのグループ展を開催する活動をしています。


【生い立ち】

私は幼い頃から感受性の強い繊細な性質をもっていました。
家庭環境が私には合わず、ずっと息苦しさを感じながら自分を否定して生きてきました。

今思えば、アダルトチルドレンな母親と、発達障害気味な父親の割と貧困家庭で育ちました。

母親は、私が楽しむことを嫌がり、私を否定する発言が多く、結構虐待的な対応もされていました。
そして、幼い頃の私はいつも母親のカウンセラーをしていました。

父親は家庭にあまり関与せず、すぐ仕事を辞めたり、運転中によくアオリとかして怒鳴っていた印象、、、
お世辞にも家庭的とはいえない環境で、幼い頃はいつも緊張と恐怖の毎日でした。
緊張が強く、毎日朝方4時まで寝れてませんでした。
かわいそう(T ^ T)
(親を否定しているわけではなく、彼らも自分達なりに頑張っていたと理解しています。)

毎日がしんどい幼少期に、追い討ちをかけるように小3の頃に祖母が自殺。
(前日に会っていたのでとてもショッキングでした。)
中学、高校となかなか辛いイジメ。
家庭は相変わらずどころか崩壊。

長年の色々が溜まり、よくあるパターンな摂食障害発症、鬱病、精神科病棟入院。

救いを求めた精神科医も、本当に寄り添ってくれる訳もなく。
(純粋すぎた若い私は本当に寄り添ってもらえるのだと思っていたのでしたw)

ずっと暗黒な10代。
どこかに突破口はないかもがくも、導いてくれる大人には出会えず、みんなが大学に入る頃
私は精神科病棟のベットの上で両手両足を拘束されていました。

ただただ現実から逃げたく、大量服薬を繰り返すようになっていました。

死にたいわけではないけれど、意識があると、この世界は辛すぎて、ただ逃げたかったのです。

風邪薬の錠剤を100錠がっつり飲んでいました。
救急車に運ばれ胃洗浄。

もう、どうすることもできませんでした。

私は一体どうしたらいいのか。


皆んなみたいに普通の社会では生きづらく、かといって精神科病棟のダークさも辛すぎて、
本当にどこにも居場所がないと感じていました。

入院生活での毎日が辛すぎたある日、
すでに拘束を解かれていた私は
非常ベルを鳴らし、病棟の施錠が解除されたすきに裸足で逃走したのでした。

看護師たちに追われ、必死に道路を逃走。

これ、、、今の私から想像できないかと思います、、、。

そして捕まり、身体拘束。
身体拘束って、体験すると絶望感すごいです。

(身体拘束は人権的にどうなのかとゆー議論もありますよね。難しい問題だと思います。
ほんとに精神病棟の現場は凄くて。
やはり話が通じない患者さんも多く、働く方はとてつもなく大変だと思います。)


私はそのとき、一度死にました。

目の前はただ暗黒の闇。
出口の見えないトンネルとは、こーゆー事なのか。と、18歳の私は全身拘束されたベットの上で思いました。

あんなに辛い毎日をどうにか耐えて生きてきたけど、私の一生はこんなかんじで終わるのか。


悔しくて悔しくて仕方ないけれど、
もう私には頑張る気力も残ってない。
もうお手上げです、神様。。。


そんな気持ちで、焦る気持ちも果て、ただただ現実を受け入れるしかないのだ。と思ってました。

同じ病院には10年間摂食障害が治ってない30代の女性がいました。
まだ10代だった私は、私の将来の姿をその人に重ねて絶望しました。

その後私はどうにかこうにか退院するのですが、メンタルはまだまだ不安定で、深夜にまた大量服薬をしてしまいました。

いつもなら意識がなくなっていたのに、そのときは胃洗浄中に意識があり、この世の体験とは思えないほど苦しかった。

担当してくれた医者から
また君か!
なんどやったら気がすむんだ!!

と、朦朧とする意識の中で怒鳴られ

本当におっしゃるとーりです。
でももう私はどうしたらいいのか分からないんです。
ごめんなさい。

と考えていました。

胃洗浄は無事に終わり、翌日も激しい吐き気。
家族はもう病院には来てくれませんでした。

そんな中、専門学校の友人だけが病院に来てくれました。

私はこの友人を2度と裏切っていけない。
絶対にもう大量服薬はしない。
と、決意しました。

そこから私の中のエネルギーが変わりました。
色んなことに気づけていきました。

まずは、親も人間なんだ。
と18歳の私はやっと気づけました。

彼らも彼らなりに必死に生きていたんだな。
子供のことだからって、親がなんでもわかるわけではない。

てこと。

そして、私自身を愛してあげたい。
という思い。

愛のエネルギーはとても強くて、私の周りの環境は何ひとつ変わってないのに、私の意識が変わる事で、病気の症状が軽減していきました。

当時は今よりもスピリチュアル的な考えは怪しいポジションだったと思うw
社会的には目に見えないものの価値を感じない人が多いのかもしれないけれど、私はこの目には見えない感覚を今後の人生で絶対的に信頼する!と、心に決めたことを凄く覚えています。

ちょうど世間では平原綾香さんのジュピターが流行っていて、
「夢を失うよりも悲しいことは
自分を信じてあげれないこと」という歌詞がドンピシャで刺さりました。

いまでもこの曲を聴くと当時を思い出します。

そして私は段々と社会復帰していき、今に至ります。

あっとゆーにアラフォー笑

私は自分に、
楽しむことを許し、人生は軽やかなんだ。
と、日々伝えてます。


幼い頃の環境がその後の人生に与える影響はものすごいです。
けれど、それも経験であり、そこでの傷を癒やしてあげれるのは自分自身です。

今の私はグループ展で出会うみなさんの、色んな人生や価値観に触れることがとても興味深く、そしてその場に集まったみなさんをお繋ぎすることに、なんともいえない喜びを感じます。

ここからどのような生き方を選んでいくのかは未知ですが、出逢えた皆さんに感謝しながら、毎日をなるべく深刻にならず、穏やかに生きたいと思います。

2023.2.1